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しみが目立ちます。軸先含めない全体的な大きさは178cm×38cm程度です。軸先ありません。ネットで松平光庸の号が谷神である記述を見つけましたので東門谷神とあるので間違いないと思います。もう1点掛軸を出品しておりこちらも東門とあります。松平 光庸(まつだいら みつつね)は、信濃松本藩の第8代藩主。戸田松平家13代。寛政10年(1798年)、松本藩の第6代藩主・松平光行の三男として生まれる。母・錠姫は光行の正室で、第5代藩主・松平光悌の娘である。文政2年(1819年)7月8日、第7代藩主・松平光年(母方のおじにあたる)の養子となる。同年9月1日、将軍・徳川家斉に拝謁する。文政3年12月16日(1821年)、従五位下・弾正少弼に叙任する。天保8年(1837年)3月30日、光年の死去により家督を相続した。文化13年(1816年)、産物会所を設置して領内の産業を奨励した。 天保12年(1841年)、藩の財政改革を巡って譜代家臣と新参家臣が対立し、お家騒動(戸田図書事件)が起こる。弘化2年(1845年)10月22日、家督を次男の光則に譲り、隠居して尤香斎と称する。明治5年(1872年)2月5日、東京に移住する。明治11年(1878年)、葛飾郡須崎村の邸宅で死去した。光庸は隠居後、嘉永6年(1853)江戸から松本に移り、辰巳御殿に悠々自適の生活を送った。家督は弘化2年10月22日18歳の光則がついでいる。香齊あるいは谷神と号し詩書を事とした。明治5年光庸は東京に移り須崎の別邸にあり、明治11年9月4日81歳で逝去された。東京染井墓地に葬られている
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